胡錦濤とチベット

気になったので調べてみたら、案の定・・・
89年から4年間、チベット自治区共産党書記を務め、武力による暴動鎮圧、虐殺、戒厳令布告、政治犯収容、拷問など対チベット強硬策で名を上げたのが、現在の中国共産党総書記、胡錦濤である。

貴州省で党書記を務めていた若き胡がチベット自治区のトップに抜擢されたのは88年暮れ。彼の前任者は自らが少数民族であるイ族出身で、チベット人に対して柔軟な路線をとっていたが、さらなる自由を求めるチベット人の声を高める結果となり、北京の党上層部の反感を買っていた。そこで白羽の矢が立ったのが胡だった。胡は北京の意向を忠実に実行していく。就任直後、ダライ・ラマに次ぐチベット仏教ナンバー2のパンチェン・ラマ10世と会談。席上、パンチェン・ラマ10世は中国のチベット統治を明確に批判。その数日後、パンチェン・ラマ10世は自らの僧院で突然の死を遂げるのである。この謎の死についてチベット人の間では、胡が深く関与したというのが定説になっているようだ。その転生者であるパンチェン・ラマ11世は中国政府に幽閉され、中国政府は自ら別のパンチェン・ラマを認定したことは前回の記事に書いたとおりである。

パンチェン・ラマの謎の死を抗議するチベット民衆は89年3月、首都ラサで大規模な暴動を起こす。胡は軍を動員し無差別射撃で暴動を鎮圧。100人以上のチベット人が犠牲になったとされる。数日後、胡は戒厳令を布告し、”力による支配”の強硬路線を決定づけた。同じ年に起きた天安門事件の際も、胡はチベットでの経験を元に北京に対し暴動鎮圧のための様々なアドバイスをしたという。

チベット弾圧政策によって北京の信頼を勝ち得た胡は4年後、鄧小平から将来の中国の指導者としてのお墨付きを得る。胡が権力の階段を駆け上る最大の原動力となったのがチベット弾圧なのである。そんな男が国家主席を務める国に、”対話による解決”などという生易しい選択肢はないだろう。

(写真:若き日の胡錦濤)

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